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私のような戦後生まれの人間の親は、貧しくても愛情だけは豊富でした。
今、子どもの虐待などのニュースを見ると、考えられない感覚です。
何を於いても子どもの為にと、特に母親は自分を我慢してでも、
子どものためにと生活をしていました。
特に今ほど食べ物がなかったので、食べ盛りの子どもには自分の分の半分を
子どもに入れて食べさせていました。
子どもと言うのはそういう事を感じて、心に残っているものです。
だから大きくなったら親を大切にしようと心に決めているのです。
しかし、何もかもが甘いのかと言えばそうではなく、
子どものためを思って躾に関しては厳しくしていました。
ちゃんと「挨拶をする」。「ありがとう」を言う。人に対しては「感謝する」。
などを教えられました。
怒る時は怒る。褒める時は褒める。抱きしめる時は抱きしめる。
それがはっきりしていました。
120%の愛情を注いでも、決してその見返りは求めませんし、
そういう考えすらありませんでした。
それが無償の愛だと思います。
自分を犠牲にしているなら「自己犠牲の愛」と思われがちですが、
そうではないと思います。
自己犠牲の愛なら、子どもの幸せのために、自分が犠牲になっているという、
「自分が負け/子供が勝ち」の状態だと思いますが、その状態は無意識のうちに
「見返り」を求めているのかも知れません。
その見返りが「感謝」「愛情」「承認」「必要とされたい」「特別な存在」
と言ったようなものが隠れている可能性があると思います。
そして、大きくなったら面倒をみて貰えるという見返りを。
無償の愛は、一切そういう見返りを求めない、無条件の愛です。
よって感謝されなくても「育ててやったのに」「大学まで行かせてやったのに」
とかいう気持ちは出てこないのだと思います。
「自分が愛情を注ぎたかったから注いだだけ」
それだけで、自分も満たされて幸せを感じるのです。
相手だけではなく自分も満たされているのが、
「自分も勝ち/相手も勝ち」の状態だと思います。
最近の児童虐待のニュースを見ていると、
子どもの為ではなく自分の欲のために、子どもを犠牲にしていると思います。
大概がシングルマザーの彼氏が家に来るようになってから、
子どもは犠牲になって行きます。
自分達二人にとって子どもは邪魔になり、
その邪魔なイライラが虐待という形になって行くのだと思います。
母親は彼氏を失いたくないから、子どもを虐待されても止めることなく、
時には一緒になって虐待をする。
子どもが亡くなってから、やっと自分が奴隷化されていたことに気が付く
というパターンが多すぎるように思います。
子どもが犠牲になって命を落とさないとわからない親の愛って、
一体何なのだろうと思ってしまいます。
いずれにせよ、自己犠牲的な愛ではなく、
無償の愛を貫き通したいと思います。
じゃ、また明日!


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jibunoikiru@gmail.com

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