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人間の死亡率は100%が正解ですよね。当たり前の事なのに、自分は違うと思ってしまいます。
余命が短い患者らに最後の場所を提供する施設「看取(みと)りの家」が神戸市須磨区で計画されましたが、近隣住民の反対で事業者が開設を断念しました。購入した空き家は売却する予定です。
事業者は、須磨区ニュータウンの住宅街にある2階建ての空き家を購入し、昨夏、株式会社を設立しました。
余命宣告を受けた患者5人程度とその家族を24時間体制で受け入れ、従来の介護保険制度にのっとらない独自のサービスを提供する計画でした。
昨秋以降、事業者が自治会関係者らに事業内容を伝えた所、住民側が反対の意志を表明しました。
「繰り返し人の死を目のあたりにするのは辛い」
「車の出入りなどで騒がしくなるのは不安」
「看取りの家はいらない」
「亡くなって行く人のお世話は大事な仕事。でも暮らしの中に入って来られると嫌なもの」
「住宅地で開設するべきではない」「断固反対」
「開設を断念してホッとした」
「その人らしく最期を迎えられる場所に、と立ち上げた。」
「住民に理解して貰えない中での開設は難しい」
「自宅で最期を迎えたい人が多いが、現実は違う。病気が進行しても治療を望まない人もいる。看取りの家はその人らしく過ごせる場所にしたい」
「満足な看取りをしたい思いがあったが、難しかった。反対されるのは想定外だったが、住民への説明不足や計画が甘かったという部分もある」
反対している年配の方々は、ご自身の最期は病院で迎えるのを望んでいる人達なのであろうか。
それとも身近な「死」と言うものを見たくもないし、考えたくもないから、反対したのであろうか。
何れにせよ、人生タイマーの残り時間をどう過ごすかは1人一人の問題であるのでどうこう言えません。
しかし、超高齢化に伴う「多死社会」、終末期患者の「受け皿」は必要を増しているものの「死」に拒否感を示す地域社会と共存する難しさがあらわになった、一件でした。
この記事を読んで、幼稚園開設に地域住民が「うるさいから」と反対し、断念したケースを思い出しました。
自分自身が幼稚園時代にうるさく元気に育ち、年老いて自分1人になっても、こういう「看取りの家」は本当に必要ないのでしょうか?
地域で死をどう受け入れていくのか。
自分はどう生きて、どう人生をしまうのか。日頃から考えておかないと、感情のみの判断になってしまうと思います。
じゃ、また!