千葉県東葛飾郡福田村に住む自警団を含む100人以上の村人たちにより、
利根川沿いで香川から訪れた薬売りの行商団15人の内、幼児や妊婦を含む9人が殺された。
行商団は、讃岐弁で話していたことで朝鮮人と疑われ殺害されたのだ。
逮捕されたのは自警団員8人。逮捕者は実刑になったものの、
大正天皇の死去に関連する恩赦ですぐに釈放された…。
これが100年の間、歴史の闇に葬られていた『福田村事件』だ。
行き交う情報に惑わされ生存への不安や恐怖に煽られたとき、
集団心理は加速し、群衆は暴走する。
これは単なる過去の事件では終われない、今を生きる私たちの物語。】
映画はまだ見ていないのですが、「物語」の部分を読んだだけで、100年経った今も、
残念ながら変わっていないのを感じました。
「森達也(監督)よりみなさまへ」というメッセージの中で、
【特に不安や恐怖を感じたとき、群れは同質であることを求めながら、
異質なものを見つけて攻撃し排除しようとする。
この場合の異質は、極論すれば何でもよい。
髪や肌の色。国籍。民族。信仰。そして言葉。
多数派は少数派を標的とする。こうして虐殺や戦争が起きる。
善人が善人を殺す。人類の歴史はこのあやまちの繰り返しだ。】
と言われていますが、私は本当の善人なら殺さないと思います。
善人を装っている、自分の意志を持っていない人が殺すのだと思います。
震災があるたびに何らかの流言飛語は広がります。
結果、死者が出る事態になってしまいます。
流言飛語とは、事実無根の事、事実と異なる事が人から人に伝言流布し、
火災の飛び火のように、たちまち四方八方に伝播する事です。
流言により目的を1つにし、同じ行動をとる群衆が形成されるのです。
後に1人で考えれば極めて馬鹿げたことでも、その時は事実と思い、
その気になってしまうのです。
人は恐怖を感じている時など興奮し精神不安になっている場合、
何か些細な事でも大きく感じたり、全くない事までも感情的に事実であるかのように
感じてしまう時があります。
それは恐怖の裏側の心理だと思います。
そんな時、自己確立が出来ていなければ自己を失い、
自己判断が出来なかったり「みんなと一緒」が安心材料になってしまうのです。
そういう人々が、この映画のように罪もない人を殺してしまうことに加担する。
そこで気が付いて異論を唱えれば、今度は自分が標的になってしまう。
これは今の学校や今話題になっている会社でも全く同じことが起こっています。
異論を唱えれば、今度は自分が標的になってしまうので、何も言わない、言えない。
反対に1人1人が自分を生きているなら、異論を唱える人の方が多いかも知れません。
そうなれば、悲惨な殺人が行われる前に食い止められていた可能性は大きいです。
奪った命はもとには戻せません。
殺してしまえば、どのように責任を取るのでしょうか?
誰も責任を取らないから、100年も葬られていたのだと思います。
無責任な集団殺人だと思います。
現在はSNSで流言飛語が拡散されます。
拡散された内容を自分はどう受け止め、どう考えるか。
これも一人1人の受け止め方によっては、責任の取れない行動に繋がると思います。
よって、自分の言動には責任を持ちたいものです。
じゃ、また明日!