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今日は若い人とお話する機会がありました。
20代前半のようですが、政治の事とか考えているようで、ある意味関心しました。
しかし、自分自身もそうでしたが、若い時はあまり疑うという事をしないので、
また、疑えば相手を信用していないようで悪いと思い、人から何か教わったら
それがすべてであったり、その考え以外は受け入れられない傾向が出てくるようです。
特に若いとそうなりがちだと思います。
しかし、ものごとの判断基準はそういう所ではなく、その事の事実がどうかという事が
判断基準になると思います。
「検討」という言葉がありますが、「検討する」という事は、
物事に対して詳細な状況を様々な角度から調べたり考えたりして、
その是非や善し悪しを判断する。
という意味のようです。
ここで大切なのは
「詳細な状況を」
「様々な角度から」
「調べたり」
「考えたり」して、
「その是非や善し悪しを」
「判断する」
という手順を踏んでいるかどうかだと思います。
以前の私は、
「詳細な状況」ではなく、大雑把な状況であったり、一方的に聞いた状況であったり
かなりいい加減であったと思います。
そしてそれを自分自身で「調べる」こと無く、誰かの言った事、組織の長が言った事を
そのまま鵜呑みにして、自らの五感で調べるという事が出来ていませんでした。
自分の目で確かめていない情報を基に「考えて」いたつもりになっていました。
よって「その是非や善し悪しを」「判断する」としても、
源の情報がどれくらい多方面から集めた情報か、自分の価値観はどうなのか。
などを考えたら、やはり広範囲の情報の中で考えて出した判断には、
少し遠いような気がします。
私自身、考える知識の少なさ、範囲の狭さ、奥行きの無さがわかり始めたのは
最近の事です。
もしかしたら、それがわかっていなければ、今まで通り偏った知識の中で
偏った判断をしていたと思います。
そして、他にもっと良い選択肢がある事を知らないままで過ごしていたと思います。
何事でも判断するにはその根拠が必要だと思います。
そして、その根拠を言えるのは自分しかいないし、
自分で調べて自分で考えるしかないと思います。
「自分を生きる」という事は、
自分の考え、自分の哲学を持つという事であり、
その為には色々自分で調べて勉強する必要があると思います。
結局は勉強するというのは、自分自身のためであり、
より「自分を生きる」ことに繋がると思います。
その自分の考えが選挙の時の1票になり、
それが日本という国の社会を作っていくのだと思います。
そしてそれが、自分が住みやすい社会になっていくかどうか。
すべては自分に跳ね返ってくるのだと思います。
じゃ、また明日!