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昔の子どもたちは自然から色々と学んでいたと思います。
私は都会生まれの都会育ちなので、自然から学ぶ機会がありませんでした。
土埃のする道路がアスファルトになり、建物がどんどんとコンクリートに
なっていく時代に育ちました。
今、考えると、昔からの自然と共に生きる時代から、経済復興の時代へと
お金に価値を置く時代の中で育ったような気がします。
お金中心になってくると、農業にしろ漁業にしろ効率を求められ、
本来の自然と共に生きることは、経済競争に負けるので遠ざかりました。
今から思えば、効率主義・拝金主義が自然を破壊していったような気がします。
子どもの教育にしても、草花や虫を相手に遊んでいました。
その遊びの中から、自分達の命が自然や地球と繋がっている事を、無意識に
学んでいたように思います。
今のHNK朝ドラマの「らんまん」のように、草花とお話をし、観察をすることで
1つのものをじっくり観察してそこから気付くことが沢山ありました。
そういうカラダで感じることが人間学に繋がるし、その子の人間性を
育むのだと思います。
昔読んだ本に「命を頂く」と言うのがありました。
小学校で鶏を飼い、最後は潰して自分達で頂くのです。
px; text-align: justify;”>自分達が大事に育てた鶏なので当然泣く子もいます。しかし、自分が生きるという事は、生き物の命を頂くという事なので、
食べる時には感謝をしながら頂くというものでした。
本来なら、食べる前に農作物であれ動物であれ魚であれ、
それぞれの命を毎食私達人間は頂いて生きているのです。
だから食事の時は「命をいただきます」と言って食べるのです。
それを思うと、食品ロスなどありえないと思うし、食品ロスで処分している
にも拘わらず、毎食食べられない人もいます。
まだまだ食べられるお弁当も規定時間が過ぎたからと、処分してしまう。
以前なら、夜になって処分するお弁当やパンをこっそり食べられない人に
棄てたふりをして店の裏に置いていた所もありました。
しかし、それも禁止され出来なくなりました。
自分が買ったお弁当なら、翌日に食べてもOKなのに、スーパーの陳列台には
衛生上置けないので、処分をする。
そのお弁当の元になっているお米や鶏や魚は、
捨てられるために生きて来たのでしょうか。
どうせなら、誰かに食べて貰ってその人のエネルギーになりたかったのでは
ないでしょうか。
「自然」に学んだことがない人が考えるから、簡単に処分という判断が
できるのだとしたら、小さい時から「自然に学ぶ」という事は、
社会の在り方にまで影響するのだと、改めて思います。
W3″, “Hiragino Kaku Gothic ProN”, メイリオ, Meiryo, sans-serif; letter-spacing: 1.4px; text-align: justify;”>今、フィールドワークやフリースクールが増えつつあります。
養老孟司氏も学校の中で学ぶより、外に出て自然に学ぶ事を勧めておられます。
「自然の中で子どもは様々な事を学んでいる。でもそれは、点数では測れない」と。
命の大切さがわからないから、誰でもすぐに殺してしまったりと、
昔では考えられない事件が多すぎます。
もう一度、自然と共に生きる教育を考え直さないといけない時期に
来ていると思います。
じゃ、また明日!
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