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童謡に「唄を忘れたカナリア」(西條八十)と言うのがあります。
カナリアが唄を忘れてしまったので、
「後の山に棄てましょか いえいえそれはなりませぬ」
「背戸の小藪に埋(い)けましょか いえいえそれはなりませぬ」
「柳の鞭でぶちましょか いえいえそれはかわいそう」
「象牙の船に銀の櫂(かい) 月夜の海に浮かべれば 忘れた唄を思い出す」
という内容です。
解説には、あなたにとっての「唄」は何でしょう。と、あります。
それを忘れたカナリアは価値がないのでしょうか。
「いえいえそれはありません」です。
月夜の海に浮かべれば、忘れた唄を思い出すように、
忘れていた自分を取り戻すことが出来る。というものです。
私も含め、今の日本人は「考える」という事を忘れています。
学校教育の期間に「ルールに従う」ということを身に付けさせられ、
その「ルールを考える」という練習がなされていなかったのです。
得体の知れない、実態のない「それは決まりだから」に縛られ、
それを疑う事も確認する事も、忘れてしまっているのです。
教育とは「自分の頭で考え、自分で行動していく」事を
身に付けさせる所だと思います。
先生のいう事を聞いてルールに従わせることが目的ではないはずです。
よって、自分で考えることが出来ず、いつも誰かに答えを求めてしまう。
私のように、この年になっても答えを求めようとしてしまう。
先生に従順であった結果が今の自分です。
「自分」で生きるために生きているのではなく、
「世間」に生きているようなものです。
昔の童謡をふと思い出した時、
「唄を忘れたカナリア」は「考える事を忘れた日本人」に思えてきました。
考える能力がないのではなく、「考える」という事をしていないのです。
よって、気遣いや忖度はできても、自分の意見を述べるという事が苦手なのです。
それ以前に「自分の意見を考える」という事が出来ないのです。
近年ますます、戦後教育の結果が現れているように感じます。
自分中心に考える事は出来ても、相手の立場になって考えたり、
自分と違う考えを受け止めたりをすることが出来なくなっているのです。
教育の成果は恐ろしい位、次の社会を作っていきます。
祖母から母へ、母から子供へと「考える」という事を忘れることが
引き継がれていきます。
「自分で考えて 自分で行動する」という教育に、
方向転換する時期に来ているように思います。
じゃ、また明日!


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jibunoikiru@gmail.com

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