「自我を捨てなさい」というのはよく聞く言葉です。
人間だれしも自我の塊です。
「自分が」「自分が」「自分が」の連続です。
しかし、世界は自分1人で成り立っているものではありません。
地球上全ての人で成り立っていると思います。
「自分が」という時は、誰かに自分を認めて欲しい時や、自分が1番になりたい時です。
戦後は競争社会であり、何事にも順列を付けていました。
そして1番になることが全てのように、1番になろうと頑張っていました。
しかし、1番になった時、そこには何があったのでしょうか。
振り返れば、執着の塊になっていたかも知れません。
1番になってみたものの、幸せというものを忘れて来たかも知れません。
そしてこの「自我」が時には自分の足かせとなるのです。
もっと自由に、もっと伸び伸びと生きたいのに、目に見えぬ拘束が自分を縛り、
がんじがらめにして自分で苦しむのです。
瞑想をすると「手放す」という概念が出てきます。
心の中の無駄なものが無くなってくれば、無の境地に達するのですが、
そこには「大我」「純粋意識」が存在しているようです。
「大我」「純粋意識」はずっと昔から自分の心の奥底に存在しているものですが、
自分の固定概念や、植え付けられた価値観や、自我が沢山あったので、
それらが覆いかぶさって見えなくなっていたのです。
自分のエゴという「自我」を捨てれば「大我」が現れるようです。
大我は人間の本性であり、誰でもに存在するものです。
そこに目覚めるかどうかになってくると思います。
例えば、人を愛すると言っても、個人が個人を愛する場合もあるし、
自分が自分を愛する場合もあるし、マザーテレサのように「無償の愛」もあります。
そのどれもが自分の中に存在していると思います。
マザーテレサは「無償の愛」に生きたように、自分はどういう生き方をしたいのか。
それが自分に問われると思います。
自分の生き方として、どれが自分にとって一番幸せなのか。
それが自分と向き合うという事でもあると思います。
「自我を捨てれば、世界は自分の手中にある」と言われます。
自我への執着を捨て、あらゆる束縛を解放した時、
人は本当の意味で自由になれるのだと思います。
自我の自分を貫き通すのか、少しでも大我に近付くのか。
はたまた大我を貫き通した生き方をしたいのか。
その選択によって、付き合う人も変わっていくと思います。
「自我」から「大我」へと、少しでも近づいた生き方がしたいです。
じゃ、また明日!