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昨日に続き、本日も日経新聞に「キセキの学校」②が掲載されていました。
「哲学対話」の梶谷真司氏によると、哲学の定義は「問い、考え、語り、聞くこと」だと述べられています。
「何を言ってもいい」は思考力の育成に繋がるし、また「否定的な事は言わない」は他者の尊重に繋がる。
「自由に話し、自由に考えられる場が無い」という事は、その結果「自分の行動、自分の生き方に責任が取れない」ということである。
子どものうちから「自ら考える力」をつけ、異なる立場の人と意見の疎通を図り、協同していく資質を伸ばすと、将来、社会に貢献でき、自立した人生が送れるようになろう、というわけである。
自ら考えていないということは、自分のやっている事を自分で決めていないし、選んでもいないという事です。
そうであるならば、やったことの責任は自分で取るなど、思いもつかないのです。
私自身高齢者の生き方に向かっているのですが、自分が何をどうしたいのか、考える自由を行使しなければ、自分で自分の人生に責任を取る事は出来ないのです。
梶谷氏は言われています。
自分の生き方に関わることを誰かに委ねるべきではない。
人間は自ら考えて決めた事にしか責任は取れない。
私たちに必要なのは、考える自由である。
そしてその為には、何でも話していい場が、どこかで絶対に必要なのである。
しかもそれが対話を通して行われれば、自分が自分勝手になることも、責任が個人で背負う重荷になることもない。
お互いの間で承認され、共に享受するものになるのである。
私は「考える」ということをスルーしてきました。それ故「考える」ということが出来ないまま現在に至っています。
しかし、残る人生を思えば、やはり考えて「自分を生きる」という生き方で幕を閉じたいなと思います。
じゃ、また!