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相手の為って思ってやっている事でも、これって本当に相手の為になっているのか?と思う時があります。
動物の子離れはシビアです。
しかし、それは自立させる為の、必要不可欠な通過点です。
人間の場合は、そこに感情が入ってしまい、通過点を見逃してしまう場合があります。
その感情は、本当に相手の為なのか、それとも自分の為なのか。
「人の優しさの根源は、悲しみである」と考えている人がおられます。
人は悲しいと感じた時に、2つの選択肢を持ちます。
その悲しみで心に傷を負って、悲しみを回避したり傷口をふさごうと繰り返す人。
もう一方は、自分が受けた悲しみを受け止め、同じ過ちを繰り返さないと決意する人。
よって、悲しみを負う経験こそが優しさの根源である、と。
つらい経験をしただけでは優しさは生まれず、そこで止まった人は、今度はその人が誰かを傷つける人になってしまうのです。
誰かを傷つける人は、誰かを傷付けようと考えているのではなく、自らの悲しみを癒そうとしているのです。
これは現在増えつつある虐待に、通じるものがあると思います。
誰かを思いやるには自らがその境遇を経験していなければ、思いやりはただの憶測にしか過ぎません。
そして、推測した行動は結果として、良かれと思ってやったことが、人にとっては迷惑になる事があるのです。
私など、苦労せずにここまで生きて来たし、悲しみを知らずに育って来たので、優しさの経験値が足りず思いやりに欠けていると思います。
問題がある人を見ると、つい手助けをしたくなるのは、その人を助けたいと思った本心から来ている行動なのか、自分が放っておくのが嫌だから助けようと思った行動なのか。
それを突き詰めると、その人を信じているかどうかということになります。
根本的に、本当の解決に向かわせることが、真の優しさだと私は思っています。
しかし、自分のやっている事が、本当にその人の為になっているのかどうか。
難しい判断です。
じゃ、また!