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私は勉強不足で、宗教にはあまり詳しくありませんが、
「義」は「はからい」と訓読するようです。
「はからい」とは思い計ること。
つまり、自分の人生の意味を考え、価値を計ることでもあります。
あちこちに出てくるヴィクトール・E・フランクルの「夜と霧」の中では、
「自分の人生の意味とは何だろう」という答えのない問について、
「人間はむしろ人生から意味を問われているのであって、
それに責任をもって答えなければならない」とあります。
義とは「はからい」のことであり、「義なきを義とす」は、
「はからいがないのが はからいですよ」ということです。
すなわち、仏教では「自分のはからい」ではなく、ありのままの自分の心の声を聞き、
それに従うことが大切ですよ、とおっしゃられています。
このありのままの自分の心の声こそが、仏教では仏様の声のことであり、
西洋では神様の声のことであり、私のような者では自分の純粋意識の声だと思います。
つらい人生の葛藤の中から、ありのままの自分の声に気付き、
他者を思いやる境地へとたどり着くようです。
上記「夜と霧」の中でも、
「自分が人生に対して意味を問うのではなく、人生から自分が問われているのだ」と。
本当に自分の望んでいることは何なのか。
自分が望む方向はどちらなのか。
「義なきを義とす」
「はからいなきが はからい」
苦しい状況の中で自分がそれをどう捉え、どう解釈していくか。
それが人生から問われているのだと思います。
じゃ、また明日!