「三つ子の魂百まで」と言われるように、三歳までの育ち方は大切だと思います。
私自身、意識していないし、そのあたりの記憶と言うのはほとんどありませんが、
今、自分と向きあった時、結局はその時期のことが自分の中で根付いていたのだと、
改めて思いました。
3歳頃から他人への気遣いも出来るようになると思います。
よって、その頃から自我も芽生え始め、無意識に親に嫌われないように、
親に好かれるようにと思って行動しているのかも知れません。
自分の中の本当の欲求を抑え込んでしまって、それが当たり前の状態で大きくなると、
自分の事がわからなくなります。
自分の事が幸せだと思っていたし、本当に悲しいとかつらい記憶がなかったので、
自分は悩みなど無いと思っていました。
しかし、裏と表、陰と陽のように、ポジティブとネガティブも裏表なのです。
ポジティブばかりでも成り立たないし、ネガティブばかりでも成り立ちません。
自分がどちらを多く感じていたかです。
それをどちらか一方ばかりに思ってしまう所に自分の中でズレが出てくるのです。
小さい頃から周りに「いい子ね!」と言われると、知らず知らずのうちに「自分はいい子なのだ」
と、思ってしまい「他人の評価=自己像」を作ってしまっていたようです。
よって自分というものを見失い、本当の感情が表に上がってこなかったのだと思います。
私の場合、何かを恐れているのだろうけれども、それが何かわかりませんでした。
むしろ、自分で怖れるようなものは無いと思っていました。
それが他人の期待に応えようとして、頑張り過ぎたりしていたようです。
要は、他人の期待に応えることで自分は受け入れて貰えると思っていたようです。
本当は、一番受け容れて貰いたかったのは、自分自身だったかも知れません。
それを他者に向けていたのです。
寂しかった自分、悲しかった自分、辛かった自分、人間ならそういう感情はあったはずです。
それを、自分で蓋をしてしまって、感じないようにしていたのです。
多分、自信が無かったから、自分自身の評価をしてこなかったのだと思います。
自分に目を向けることなく、親であったり周りの人であったり、他者に眼を向けていたのです。
よく「ありのままの自分を受け入れる」と言いますが、
ありのままの自分の基準が違っていたようです。
感情を押し殺したありのままの自分ではなく、感情をむき出しにしたありのままの自分。
それが本当の自分だと思います。
長年、良い子であろうとした自分と付き合ってきました。
よって、それ以外の自分がいる事すらわからなくなっていました。
今、この時点でやっと気が付いたなら、今からでも我儘な自分を引き上げてみるのも、
自分の幅が出る可能性があるような気がします。
素直に「自分は辛かった」「あの時は寂しかった」「悲しかった」と言える人がいます。
今思うと、その言葉は、かなり自分と向き合った上での言葉だと思います。
それを言えるという事はそういう自分を認めているという事なので、自分自身と対自した証です。
自分を生きるという事は、他者評価より自己受容だと思います。
自立と言う意味では、
「人の価値は、他者の評価に依存しない」とアドラー氏が言われているように、
先ずは自分自身の評価が大切だと思います。
じゃ、また明日!