人は自分の使命に気付き、その使命のもとで生きて行こうとします。
反対にその使命がわからずに、探し続けている人もいます。
以前は「使命」などと言うと、何か特別は人ことで、自分には関係ないと思っていました。
しかし「人はそれぞれ生まれて来た意味がある」という言葉を聞くにつれ、
自分のような凡人にでも、生まれて来た意味、使命があるのではないかと
思うようになってきました。
ただ、まだその自分の使命に気が付いていないだけなのかも、と。
そうであるならば、自分が生きているうちに「これが自分の使命だったんだ」と思える、
自分のやりたかった事に気付き、やっていくのが自分の生まれて来た意味なのかも知れません。
自己啓発では「自分のゴール」をよく聞かれます。
人生の最終目標は何ですか?
具体的な目的は何ですか? と。
自分の「人生の目的=ゴール」が無ければ、
自分の存在意義が無いような気にすらなってきます。
特別意識しなければ、人生の目的がなくても自分の人生を全うすることは出来ます。
それが自分の選んだゴールになるのだから。
よって、人それぞれの生き方があるということだと思います。
自分の役割や存在意義に目覚めると「世界に自分の居場所」が出来たようで、
増々自分の使命に生きるようになります。
それが自分の命を生きることにもなるのだと思います。
自分の使命を果たすとき、忘れてはならないのが「愛」です。
愛ある言葉で人と接し、愛ある行動で物事を達成していくとき、
そこには命が吹き込まれます。
今、ウクライナの人々を各国が難民として受け入れています。
それは「戦争を止めなければならない」という使命と、
戦禍で何もかも失った人々の心を愛で満たし、
生き延びた人々の命を繋ごうとしているからだと思います。
「愛」とは「存在をただありのまま受け入れること」だと言われ、
「使命」とは「存在の意味を生きること」だと言われます。
つまり「自我」は愛と使命を通して生命を吹き込まれるのだと思います。
今、戦争を仕掛けている国のリーダーは、
愛を受け入れることなく、間違った使命を生きているのだと思います。
自国民が大切であるならば、このウクライナとの戦争が終わった時に、
どれほどの負担が自国民に掛かるのかさえ、気付かないでいるのでしょう。
或いは気付いていても、自分達さえ生き延びればよいと思っているのかも知れません。
自我に命を吹き込むには、愛と使命が必要だと思います。
じゃ、また明日!