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人には持って生まれた寿命という持ち時間があります。
長い人、短い人。人それぞれです。
おギャーと生まれた瞬間から、すべての人が公平に1秒ずつ消えていきます。
大人になるまでは新しい知識を身に付けることに精一杯で、
ほとんどの人は砂時計の事は眼中にありません。
しかし、大人になったり、病気になったり、家庭を持ったりすると、
自分の「死」というものが頭をよぎる時があります。
現実は「死」というものを意識しようがしまいが、1秒ずつ消えて行っているのです。
若い時は「どう生きようか」と迷い、悩みます。
歳を重ねると「どう死のうか」と迷い、悩みます。
どちらかの選択ではなく、常に「生」と「死」は裏表なのです。
「どのように生きようか」=「どのように死のうか」であり、
「どのように死のうか」=「どのように生きようか」なのです。
要は、1秒、1分、1時間、1日を自分がしあわせに過ごせているかどうかが、
自分に問われている訳です。
「死」の直前には、その人の今までの人生の生き方、家族との関係など色々な面が現れます。
そして、安らかな眠りについた方には、心から「良かったね!」と心の中で声をかけていました。
勿論自分の親にも。
もう十分生きたから「いつお迎えが来ても構わない」とか「早くお迎えが来て欲しい」
とか言われる方がいますが、最近の私はお迎えに対しても少し積極的になって来ました。
「お迎えが来る前にこちらから迎えに行こう!」と。
つまり、じっと何もしないで待つのではなく、自分が楽しいように、自分がしあわせなように、
自分からそのように残り時間を設定したいと思うようになりました。
砂時計の砂が少なくなればなる程、より一緒にいたい人とやりたい事をやりながら過ごすことが、
私にとっては「死ぬこと」=「生きること」なのです。
世間一般には「生を全うする」と言われますが、私は「死を全うしたい」と思います。
自分の持ち時間は、結局は自分しか使うことが出来ないし、
人からとやかく言われてその通りにしたとしても、その責任はその人が取れる訳でもありません。
自分の人生は自分で責任を取るしかないのです。
何故なら、おギャーと生まれた瞬間に自分に頂いた時間なのですから。
ただ長いのが良いのではなく、長さよりも生きる「質」の方が大切だと思います。
小児がんで亡くなった子供たちの方が、どれだけ質の高い輝いた生き方をしているのか。
周りにどれだけのしあわせをまき散らすことができたのか。
私など、足元にも及びません。
自分の与えられた砂時計。
残り時間を愛おしみ、大切にしたいと思います。
じゃ、また明日!